『タンノイのエジンバラ』、『聖少女』……他。




普段、どこで本を読むか、というのはその人のライフスタイルが見えるようで面白い。


「通学通勤の電車の中で」と聞けば、この人は時間を持て余さないタイプなのかな、あー、あと通勤ラッシュでしんどい地域には住んでいないのかな、と思うし、「寝る前に布団の中で」となれば、いいよねーそれ結構眠くなっちゃって内容あんまり覚えてなかったりするんだけど、なんて話をしたくなる。


さて、私はというと、最近のブームは入浴しながら、なのだ。日付が変わるか変わらないかの頃に、ぬるめの風呂に漬かりながら、短編なら2本くらい、マンガなら半分くらい読み終えたら一度出て、冷たいシャワーを浴びて、もう一度本を手に入りなおす。汗がどんどん出てくる。本が濡れないようにタオルで拭きながら、黙々と読む。気持ちがよくて、とてもいい気分になる。


と、昨晩もそうやって気持ちのいい読書タイムを過ごしていたら、どこかの家の窓から大音量で音楽が流れ出てきた。どうやら風呂場で防水CDプレーヤーでも使っているらしく、妙に反響している。しかもどこぞの男性アイドルグループの曲調。これには参った。せめて窓を閉めてくれていいのに……と思いながら、まぁ、窓を閉めていない私も悪いし仕方ないか、と諦めて、4曲ほど聞いてしまった。防水グッズは様々あれど、こういうこともあるから気をつけなくてはいけないし、気をつけようと思った。お風呂で音楽が聴けるグッズは、ちょっと欲しいなーと思っていたところなので。


■長島有『タンノイのエジンバラ
芥川賞作家、長島有の受賞後初の作品集。短編4本を収録。


解説で福永信が「長島有の小説には固有名詞がよく出てくるけれど、これはある<居心地の悪さ>を表すために置かれていると思う」ということを書いていて、とても納得した。創作教室などでは、固有名詞というのは基本的には書かないほうがよい、ということを言われると思うのだけど(私は大学の小説実作の講義で同じように教わったことがある)、長島有にとってはそのその固有名詞こそが、彼の小説の重要なキーである<居心地の悪さ>を演出するために用いられている。


──「じゃあね、えーとですねー」本棚から初心者向けの教則本を手渡すと、安藤はデニーズでデザートを選ぶような調子でページをめくりはじめた。
(『三十歳』P188 文春文庫版)


これ、読んでいて笑ってしまった一文。
デニーズでデザート、なんかよくわかる。とてもよく判る気がしてしまう。これはデニーズでなくてはいけないのか、バーミヤンでもロイヤルホストでも構わないのかもしれないが、デニーズという響きはとてもいい。「これではデニーズでデザートを選んだことのない人にはわからない」という理由で使うべきではない、という意見がありそうだけれど、作中では作中人物がそのように思ったのだから、とても正しい感想でもあるのだ。かつ、面白い。こういう表現もいいのだ、ということは、作中で「誰が話しているのか」(作者が作中人物に寄り添いすぎない)という観点からすれば、ルールや教えに沿いすぎて忘れてしまいがちなことだ。デニーズでデザート、と書くことが、他のどんな言葉よりも時代と感覚のリアルを切り出せることもある。



倉橋由美子『聖少女』
私が習っているゼミの先生曰く「作中作モノでの極致」と言わしめる小説。
読んで驚いた。華麗で巧妙でありながら、リーダビリティが高い。そして作中作も完璧にハマっている。近親相姦というテーマを扱いながら、どこか重くなりすぎず、読み進めることができるのは素晴らしいことだ。書かれた時代や年代の古さはどことなく感じても、文章が輝き続けて死んでいない。作者のまなざしもしっかり盛り込まれている。あぁ、こんな文章を書いてみたい……。

少し長いのだけれど、出会えて最高に嬉しくなって頭にガーンときた文章を抜粋させていただく。本当は近親相姦に及ぶ理由はとても自然である、という説明なのだが、抜き出したいのはそこではないので、その種の話は(略)として略している。


──セックスとは自分の存在を他の存在に接合しようという欲求である(略)。少なくとも他の存在のなかに自分をみいだすことができなければならない。(略)存在は、自分のかたわれである(そのかぎりでは自分にほかならない)他の存在にあこがれるのだが、ここで当然、自分に近いものとの結合ほど容易であり、低いエネルギーしか必要としないこと、を仮定してもよいだろう。(略)ところで、自分とはかけはなれた存在と結合するためには、そしてこの距離を克服するためには、自然的な引力とは別種のエネルギーが必要となるのだ。この反自然的なエネルギーのにない手は、もっと人間的なもの、つまりことばだろう。ことばによって飛行するこの精神的エネルギーのことをぼくはと名づけよう。
(『聖少女』P162-163 新潮文庫版)


こうして性的な結合という出発点から「愛」のひとつの定義が生まれた。こういう考えがいくつも身体の中に蓄積すると、その人それぞれの「愛」の定義が多様化し、選択され、消化され、洗練されていくのではないか。



岩井俊二『ウォーレスの人魚』
『Love Letter』や『リリイ・シュシュのすべて』などの脚本・監督をした岩井俊二の小説作品。1997年刊行なので、ちょうど『スワロウテイル』が終わった後の頃になるだろう。


とても面白かった!ダーウィンよりも早く進化論をまとめた科学者・ウォーレスが、晩年に香港で人魚と出会い、その記録として書いた『香港人魚録』(これはおそらく岩井俊二による架空設定だろう)を発端に、時代と場所を越えて人魚と人間をめぐる物語が展開されていく。前半ではイルカの研究チームが実際に人魚と出会い、様々な障害や問題を超えながら、人魚を理解するために奔走する姿が描かれる。後半では物語が二転三転し、人魚の生態や生殖方法、登場人物の大きな秘密、利権と欲望にまみれた科学者の陰謀……と、本から目を離すことができなくなってしまった。


文章に難解な表現があまりないため、558ページという厚さの割には一気に読める。この読みやすさは、一般小説よりもライトノベル寄りだろう。ただ濃度が違うため、読後感は異なるものがあるとしても、普段ライトノベルを中心に読んでいる人にも薦められる小説だと思う。これから一般小説にも手を出していきたいな……という人には、うってつけの一冊になるのではないだろうか。

岩井俊二の物語構築能力の高さを、素直に楽しめる作品だった。