フリータイム、という言葉が及ぶ範囲とは?




27日土曜日、現代美術の国際展「横浜トリエンナーレ2008」で、チェルフィッチュ『フリータイム』を観劇した。それまで誌面でしか知らなかった岡田利規の本業が見られる、と意識すると、なぜだか緊張してしまった。(たぶん「岡田利規」という名前が先行してハードルを上げてしまい、それが崩れたらどうしようという不安なんじゃないかと思う)
座席が80席しかなく、開幕2時間前に整理券を配布ということだったので、2時間半ほど前に並んだ。33番。整理券はあと5分というところで規定数に達したらしく、2時間を待たずしての配布となった。


出勤前の朝の30分をファミリーレストランで過ごす女性がいる。その30分間は女性にとって必要な「フリータイム」である。その「フリータイム」を軸に、ウェイトレスや夜明かしをする男性たちなどの視点を入れながら、彼女の頭の中や意識に触れていく……と、書けばいいのだろうか。正直なところ、私もどう書いてよいものか、未だにわかっていない。文章力のなさを痛感している。ううう。


大きなストーリーがあるわけではない。演者も配役があるにはある、というくらいで、差異がなくなることもしばしばだ。舞台も変わっていて、ファミレスを真横から見て、テーブルの足が少しだけ残るくらいの高さで水平に切り出したようになっている。椅子の背もたれ(と思われるもの)とテーブル(と思われるもの)が舞台上に生えているようなのだ。しかし演者たちはそれらを「椅子」や「テーブル」としての意味では使わず、気楽に乗ってみたり、足でつまんでみたりする。唯一の例外で、テーブルにノートを開き、延々と円を描き続ける動作があり、そのときだけは「テーブル」が「テーブル」として使われていた。おそらくその「ノートに円を書き続ける」という一点だけが現実とつながっており、それ以外はいわゆる空想世界であることの比喩ではないか、と思った。


『フリータイム』の戯曲は、『新潮』に以前載っていた。まるで正確な口述筆記をしたかのようなセリフばかりで、いったいどうやって演技するのかと思っていたら、普通に話すように(それも観客に向けて「この人は○○で……」や「私は思うんですけど……」というような語りかけも頻繁に出てくる、というよりそれがほとんどだった)演技するので驚いた。しかし演者が舞台に立つ以上は、行動や言動はすべて演技になるのだろうから、これも演出によるものなのだろう。どうにも妙で、上演後も、話していた言葉や話し方が頭に残ってしまった。


役者が役割を変えてしまうことで「役割」の意味がなくなる。
舞台が設定されていても自由に動いてしまうことで「空間」の意味がなくなる。
広く通ずるところの演劇的要素を排してしまうことで「常識」の意味がなくなる。


これは深読みかもしれないが、女性の「フリータイム」をめぐる演劇とは別に、それらの「あらゆる意味からの自由」を考えてみれば、タイトルの『フリータイム』が及ぶ範囲は様々なものになるだろう。革新的で野心的な、印象に残る素晴らしい舞台だった。


この日は観劇以外だけではなく、現代アートにも多く触れられた。一日かけて頭の中のカチカチになった部分をほどいているようだった。自分がいかに凝り固まった考え方や感じ方をしているかを考えさせられ、よい経験ができたと思う。