東浩紀『動物化するポストモダン』




東浩紀関連の著作はいつくか読んだことがあったのだが、この記念碑的な、代表的な作品をそういえば読んだことがなかった。自分でも不思議なことだと思う。買ってあって目に見えるところに積んであったのに。


80年代、90年代以降のオタクたちの歴史と歩みを「動物化」という言葉を用いて総括(分析)したことは、とても大きな意義があると思う。私は文中で言うところの第三世代オタクに相当するが、自分の最もオタオタしい時期だった中学生〜高校生あたりのことを考えると、事例にとても当てはまることがあり、何度も頷いてしまった。


たしか東浩紀の著作『ゲーム的リアリズムの誕生』でも出てきたことだけれど、「データベース消費」だとか「シュミラークル」だとかいうのは、とても納得できる話ではあった。ただ、これは創り手からすればとても悲しくなるような話で、これが俺の作品だ、と胸を張って世に出したものが結局データベースからの組み合わせでしかない、と論じられてしまうのはいささか寂しいもの感じる。しかし、そういう細かいひとつひとつの事象ではなく、全体的に見れば確かにこの論説は通用するよな、と思うところもあり、複雑な気持ちがあるのもうそではない。


しかしながら、たとえば『動物化するポストモダン』や『ゲーム的リアリズムの誕生』、そして大塚英志『キャラクターメーカー』での論説には通ずるところがある。前者が現行世代はデータベース的なものを積極消費して「動物化」している、ということを提示し、後者はそのデータベース的なものを積極利用して魅力的なキャラクターを作り出しましょう、ということを言っているわけで(本の中身が全部そういうわけではないけれど)、これは東浩紀の内容を踏まえて見れば、実に理に適った話だと思える。『キャラクターメーカー』を読んで違和感を覚えた読者は、『動物化するポストモダン』を合わせて読むと、胸のすっきりする思いを味わうことができるはずだ。


もちろん魅力的なキャラクターができても、それを当人が扱えるかはまた別の問題なので、十分にオリジナリティは保たれる。目の前にある小説やライトノベルは「誰でも書けそうな文章」ではあっても「誰でも書ける物語」ではない、ということだ。そこには(物語の“強度”という点を抜きにして考えれば)限りなく固有性がある。……しかしその固有性の源さえも「データベース」なのではないか? と考えると、これはもうかんじがらめになってしまう気もするので、難しいところではある。