多和田葉子『ゴットハルト鉄道』




何か書くことに自覚的になったとき、気にしだすといつまでも気になってしまうのが句読点だろう。どこに打つか、どう打つか、これはプロアマ関係なく、その人それぞれの意識によるところが大きい。手癖で打つのはよくない、と説く人もいる一方で、恐ろしいまでの回数の句読点を使ってもなお売れ続けるトラベルミステリーの巨匠という例もある。そんな風に考えてから、私はあまり気にするのをやめた。自分の意識、自分が打ちたい場所に打つことを心がけるようになった。もっとも、それは読者のリーダビリティを損ねてはいけないので、私のためと言いつつ、もっぱら「最初の読者である私のため」と言い換えるべきなのかもしれない。
読んでいて座りの悪い文章は、大抵、句読点を打つ位置やタイミングが肌に合わないことが多い。慣れるまでに時間がかかる。慣れてしまえば、あまりにひどくなければ、問題がないことが多い。これは同様にダッシュ(──)においても言える事だ。
多和田葉子の小説は、まったく自意識過剰な言い方になってしまうが、非常に読んでいて気持ちがいい。つまり、私が不自然に感じる句読点の打ち方をしていないということが大きい。打つべきところで打ってくれる。文章内での阿吽の呼吸、みたいなものだ。


『ゴットハルト鉄道』はひとりの人間の頭の中にうぬうぬと埋まっていって、視覚と思考を間借りしているような気味の悪さがあった。長い小説ではないが、読むのに大変なエネルギーが要る。私の意識と作中人物の意識との噛み合わせがうまくいかないと、なかなかに読み進めるのが大変になる。そこがまた、クセになるポイントでもあるのだろう。
たった数十ページなのだが、読後感は大きい。多和田葉子は私が追いかけるべき小説家のひとりだと、勝手ながら思う。