舞踊で出来ることが、小説では出来ないのか?




神楽坂セッションハウスでマルグベン・ゲルベス&ダービッド・ブランシュテッターのデュオ・グループの公演を見た。知り合いがこのワークショップに参加していたので、お誘いを頂いたからだ。結論から言って、とてもよかった。(途中、やや冗長で疲れてしまった箇所もあったけれども……。)
インプロビゼーション(即興、アドリブ)での身体表現(舞踊)をはじめて見たこともあるのかもしれないが、言葉を介さず、異人種で、性別も違う人たちが同じ空間で共演者を感じ合っている光景は、私に様々なものを想起させ、考えさせた。自分の放つジェスチャーや行動に対して相手が応える、その繰り返しで一連の動きが振り付けになり、舞踊になる。しかもその動きでさえ、個人の感情・思想・文化・経験が絡んできて初めて表出するものであるのだ。舞踊経験があるとしても、全くの他人を、即興状態であれほど感じあいながら何かを創りあげることができるのは、どうにも素晴らしいことだと思う。
人が舞踊をするとき、きっともともと、このような形式でやるのが当然なのだろう。つまり、踊りたいから踊る、のである。自分の気持ちを表現するために、体を使って何かを伝えるために、原始的に踊る。テクニックや型というのは、すべてあと付けである。それは体質や修練で身につくが、彼らのインプロビゼーションとは、そもそもの始まりが違う。振り付けを事前に考えて踊るのは「踊り」だが、彼らがやっていたのは「踊る」ことそのものだった。その繰り返しが、観客に魅せる公演となったのだ。瞬間的な表現感情の発露・燃焼・消化が繰り返される機関が、あの舞台の上にあった。

これは小説で可能なことだろうか?
共通のエディタを用いて、それぞれが好きなように話の筋を組み立てていく。リレー形式ではなく、リアルタイムに、まるでチャットのような反応速度で物語が出来上がっていく。共作であり競作。出来上がるものは誰にも予想ができない。もちろん書く人間にさえ……。決して不可能ではないような気もするが、可能であるという断言も不安である。試してみたいような気もする。もっとも、マルグベン・ゲルベス&ダービッド・ブランシュテッターのデュオ・グループでも、この公演までにワークショップや私的な付き合い(おそらくインプロビゼーションのための訓練)を積んでいるだろうから、いきなり応用・流用できるというわけではないだろうが。

PCを用いれば、実行は容易なことだ。ただの道具であるPCが、新しいフィールドを生む。こういう想像は、楽しい。