恋愛は穏やかな日常を破壊するのか?




最近になって『SEX and the CITY』に熱中しまくっている影響で、私もキャリー・ブラッドショーよろしく、色々なこと(特に恋愛に関すること)を推察したり考察しては、カタカタと脳内テキストエディタに打ち込んで語尾に「?」を打つことがマイブームになっている。(まったく地味で根暗なマイブームです)


恋人と別れて3週間ほどになる。その間の私は、自分から別れを告げたこともあり(かつ、何か目的・理由があってそうしたので)無気力になることもなく、むしろ精力的な日々を送っている。後悔なども全然なく、もっぱら自ら定めた覇道を突き進むことにしか興味関心が持てないという有様だ……もちろん私は「有様」などとは露ほども思っていないのだけれど。


人にとって「退屈」を感じる瞬間は、まず安全であることが前提となる。心身の安全。加えて、特に心の問題だが、「平穏」であることも関わってくると思う。「平穏」は「変わったこともなく、穏やかである・こと(さま)」という意味だ。さて、昨今の恋愛事情において「恋愛」と「退屈」は結びつかない。恋愛状態にある男女の仲に「退屈」というキーワードが挟み込まれているだけで、どこかよろしくないように取られることが多い。言い換えれば、恋愛状態にある男女の仲には「平穏」というのもあまり歓迎されないということだろう。どこかへ出かける、同じ店に行かない、ふたりでいるときはふたりで何かをする、サプライズを用意する云々……これはすべて「平穏」の打破のための手段といえる。
ところが人間が快く生きてゆくためには「平穏」が必要になる。仕事のため、生活のため、自分のため、あらゆる理由で。ところが恋愛は(というより、巷やメディアでよく言われるところの恋愛は)「平穏」が歓迎されない。場合によっては「平穏」を「倦怠」だとか「愛していない」だとかいう風に捉える者も出てくる。結果的に、恋愛依存傾向に陥る危険性が強まる。恋愛こそが、その人間を支える骨になってくる。
一方で、恋愛をそう捉えない者もいる。私のような人間がそうだ。私には「平穏」であることは何より大切なことである。それがないと、本を読めなければ、書くこともできないし、何より生活が揺らいでしまう。生活と「平穏」は強い結び付きを欲する関係にある。生活があってこその自分、自分があってこその恋愛であるから、自分を自分足らしめる「平穏」を他者によってあまりに崩されることは、強いプレッシャーと不快感につながってゆく。その人にとって「恋愛」が「平穏」を打破するだけの存在と感じられたとき、はっきりと別れることを意識する。(私がそうであったからかもしれないが、自己実現欲求が強いタイプでは特に表れやすいのではないかと思う。)
相手がいなければ自分は生きてゆけない、恋人同士なんだからこうするのは当然、などと言うのは、その人にとってはたしかに心身の平穏も得つつ恋愛も楽しめる言葉かもしれないが、相手にとっては諸刃の剣となりうる。そもそも他人の生活・精神に干渉する行為が「平穏」を打ち崩す危うい行為だと、いったいどれくらいの人が認識しているのだろう?
恋人であるからとか、恋愛しているからとか、という免罪符を使うことをやめなければいけない。お互いにとっての「平穏」と「恋愛」のバランスを意識することは、ますます大切なことになる。相手をよく観察し、できるだけ様々なことを話し合って決めていかなければ難しいことだ。
私は今、大変に「平穏」な状態にいる。もともと自己中心的な志向があるとはいえ、これはこれで、困ることなど何もない。自分自身を高めるべき期間にいると自覚すればするほど、やらなければいけないこと、やりたいことは増えていく。問題は性欲だが、これもどこか、置いてきたような存在になっている。その性欲でさえ、何か自分の表現活動や思考と結びつけて捉えているようなところがある。
恋愛がその人にとってどういう位置づけであるか、これは妄信や吹聴を抜きにして、実感も体験も必要になるかもしれないが、考えてみる価値がある。なぜならそれで、自分自身の「平穏」を取り戻すことができるのかもしれないのだから。



かなり取り留めのない、よくわからない文章になってしまった気もするのだが(しかもあまり面白くもなさそうだ)最初はこんなものだろうか。キャリー・ブラッドショーを見習って、日々考えていければいいな、と考えている。