『コンテンツの思想』、『電波大戦』




評論なり対談集なり、そういうものをどうカテゴリー分けするかで悩むのだが、あんまり細分化するのもいやだなぁという思いから「エッセイ」タグでまとめてしまっている。辞書を引くと「ある特定の問題について論じた文。小論。論説。」という意味もあるので、間違ってはいないのだろうけれど、なぜか間違っているような印象がある。「エッセイ」という言葉の持つ力、みたいなものを感じる。力というか、意味というか、通用性というか。



東浩紀『コンテンツの思想』
マンガ、アニメ、ライトノベルという三本の軸を立て、それぞれの分野で活躍する人たちを招いた対談集。「いま、どうするか」や「いま、どうなっているのか」を論じているなぁ、というのが読んでいて面白い。ある意味では実践的な一冊ともいえる。
物書きの私としては、やはりライトノベルの項が参考になった。桜坂洋新城カズマの作品を深く知らずとも(というか私は、ごめんなさい読んだことが……あ、桜坂洋東浩紀『キャラクターズ』は読んだか)楽しめる。キャラクターと「私」の関わりは、私自身も考えないといけないと深く、深く……。


本田透電波大戦
別に女性と付き合うとか恋愛がどうとか、どうでもいいじゃないか自分がよければ、なんて切り捨ててしまえばそれまで……とぼんやり思いながら読み進めていくと、しかし私は気づくのであった。あれ、どうして恋愛の比重がこれほど大きいのだ?と。もちろん子孫繁栄万々歳は人類にとって大切なのだろうけれど、別に恋愛しなくてもいいじゃない。恋愛は「結果」でなくて延々と続く「過程」みたいなものだから、その道を選ばなければ、選ばなかっただけという話。そもそも恋愛は見えないもの(形のないもの)であって、とても抽象的なものなはず。その抽象的なものを、何かこう、即物的にしようという恋愛資本主義みたいなものが厳然とあるものなんだ、ということを知ってがっかりしたわけでした。だから本田透の言う「恋愛がしたいんです」という本音(それこそマンガのような)はあながち笑えないことで、感心もした。しかも実は、薄々みんなもそれは感じていることで、だから少し前に「純愛ブーム」みたいなものがあったんじゃないか、なんて考えた。恋愛資本主義の欺瞞というか、不満というか、そういうものがじわりじわり、出てきているような気がする。
私も「女は怖い」と思うけれど、どうかなぁ、もう実際にやってみることでしかわからないから、のんびり構えていることにしている。自然体でいる。背伸びもしない。無理もしない。過度な期待も失望もせず、今はただただ生活と恋愛を寄り添わせて生きるようにしている。って、これ、別に感想でもなんでもないなぁ。