佐々木敦『絶対安全文芸批評』




「文芸批評家」でない「文芸を批評する人」佐々木敦による初の文芸批評集。
「文学」という世界を「外側」から批評するから「絶対安全」なのだ。今までは「文芸プロパー」の内側でのみ行われていたせいで、摩擦や干渉や自主規制があった批評という行為を、内側とは無関係の場所(第1章の『絶対安全文芸時評』は雑誌スタジオ・ボイスに掲載されていた)から発信することで「絶対安全」そちらもこちらも、ということ。
毎月刊行される文芸誌を全て読み、ランキング形式で批評する『絶対安全文芸時評』をはじめ、数々の文芸誌から依頼されて「文芸批評家」的な仕事を行ってきた記録が集約された本書は、帯にある「小説を楽しむ方法!」という言葉に偽りなく、まず非常な愛に溢れている。そもそも毎月刊行される文芸誌をすべて読むという行為が、どれほど辛く大変か、ということだ。読みたい本だって、読まなくちゃいけない本だってあるだろうに、それでも毎月頼んでもいないのに出てくる文芸誌を、新人中堅ベテラン関係なく好き嫌いも関係なく読んでいく作業は、辛いに決まっている。
佐々木敦は『絶対安全文芸時評』をスタジオ・ボイスではじめる以前に、『文学界』で『新人小説月評』を担当していた(それは『絶対安全文芸時評前夜(新人小説月評)』として収録されている)。担当して4ヶ月目の末文に、こう書いている。

──神様、文芸評論って耐えることなんでしょうか?(P102)


それだけ、彼の琴線に触れる、満足に応える作品が出ていないということだろう。担当期間の半年を終えて、最後に「感想」としていくつか挙げている中にこんな一文がある。


──誌面を埋めるためだけに存在しているとしか思えない自堕落な言葉を読まされるのは端的に苦痛だった。(P109)

など、他にも「感想」には厳しい言葉が並ぶ(「私怨を他人に読ませるな。読ませるならせめて読めるように書け。もしくは私怨としか読めないように書かないでくださいよまったく。」は、言葉遣いからして、もうほとんど愚痴に近い)が、そのどれもが佐々木敦が「読むこと」そのものを愛している故に、そして多くの読書量という見地があってこそ言える「愚痴」であり「苦言」なのだろう。
だからこそ、その後に収録されている阿部和重古川日出男西島大介吉田修一などの個人への批評は、論ずるだけの強さと魅力を持つものばかりなのであろうから、とにかく褒める。褒めて褒めて、たまに不満があれば漏らすけれど、基本的には褒める。この「まず褒める」というスタンスは、私にとって大変心地良かった。褒められるだけの魅力を十全に備え、その魅力を解釈し推論し読者へ伝えるという、そんな愛に満ちていると、私には思えたのだ。


私は「文学研究」だの「作家研究」だのというものをしている人間を、快く感じた経験がほとんどない。死後数十年経った作家の作品を(時には作家自身さえ!)いじくりまわして勝手に推論し、自己満足に至っているとしか思えないのだ。ひどいものに至っては「深読み」だか「ウラ読み」だかなんだか知らないが、もはや「批評」や「研究」の域を超えた「小説」とさえいえるほど創作してしまっているものさえある。そんな物は、まず作者に対して不敬なことだし、生み出す価値がない。それを愛があるからこそ出来るなどという人間は、もっと信用できない。愛がないからできるのだ。そうとしか考えられない。もちろんやりたければやればいい、ということなのだろうが、私にとっては好ましくもないし、まして面白いとは甚だ思えない。読む気も一切、起きない。


話がそれた。
佐々木敦の文芸批評は、「時代」を見つめ「今」をつくる批評だ。それは読み手にとっても書き手にとっても、「文学シーン」(というものがあるとすれば)に乗ろうとするものには格好の読み物となるだろう。とても楽しく、興奮しながら読んだ。特別収録の市川真人(早稲田文学)との対談は、新しい文芸誌とその有り様を切り開く素晴らしい言葉に満ちている。出版社勤務希望の就職活動中の学生などにも、オススメしたいところだ。他に強くオススメしたいところでいえば、やはり作家志望の諸氏ということになるだろうか。つまりここを超えていけば、佐々木敦のような愛のある批評家からは一目置かれる存在になるかもしれないという、ある種の目標となり通過点となるだろう。そのための言葉(ヒント?)も、たくさん、溢れている。

余談だが、黄色い紙は意外に目に優しい。