阿川弘之『食味風々録』




以前、とある編集者が「いい作家はいい食事をしている。いい食事をしなければ、いい文章はやっぱり書けない」という旨のことをおっしゃっていた。それ以来、「食事」と「文章」についての関係性に興味が湧いた。そのようなマイブームもあって手に取ったのが、阿川弘之『食味風々録』だった。
出会ってきたアレコレの美味しかったものや美味しかった店(場所や店名もしっかり出てくる)を語るのが大筋だが、引用なども行いながら、自らの「食事」に対する思いや取り組み方を上手に織り込んでいる。
阿川弘之は美食家(それは、それなりにそうなのだろうが)という感じではなく、とかく自らの感覚が絶対で、それに食事の対象を合わせたいし合うものが自分にとっても良いもの、という感じがした。つまり「自分の食べたいものだけ食べたい」が発達した、子供の感覚を持つ渋い大人、とでも言うべきか。店の雰囲気、風評、その他一切を信ずるよりも、美味いものは自分の舌で決める。これは結構、大事なことで、私などはまだまだ舌以外のものに流されてしまうよな……と自戒もして、それはそうと、大変面白く読んだ。硬い文体だが、不思議と読みやすいのも驚きだった。言葉の運びがうまいのか、おそらく、段落ごとの構成が破綻せずにしっかり次につながるので、読み手に疑問を与えないだろうと思った。

福沢諭吉と鰹節』の章で、アメリカ帰りの福沢諭吉が船上で日記帳に書いた「夢の献立」のひとつに、「わさび花鰹節」としたのをきっかけに、自らも同様の体験をしたことを書いている。イタリアへ向かう9日間の航海中、3日目ごろからイタリア料理に飽きた阿川弘之は「かつぶし飯食いたいなあ」とばかり考えていた、と明かす。それから阿川家のかつぶし飯の話に入るのだが、このかつぶし飯に私の喉は鳴ってしまった。


──我が家のかつぶし飯は、弁当箱なり小鉢なりへ、炊き立ての白いごはんを軽く入れて、それに醤油でほどよく湿らせた削り節をまぶす。その上へうっすらとわさびを添え、黒い海苔一枚敷きつめれば、容器の下半分が埋まる。上半分は同じことの繰返し。(略)味が浸み込むまで、あったかさ加減が丁度よくなるまで待って、二段がさねの此のご飯に箸をつけると、海苔の香わさびの香がほのかに立ち昇り、何とも言えず旨い。(P201-202)


これを亡くなる3年ほど前の吉行淳之介が、阿川家に来るとよく所望したのだという。吉行淳之介が私の敬愛する作家ということもあり、さっそくつくってみることにした。しかし阿川先生、「わさびを添え」るのがよくわかりません。チューブからわさびを出したはいいが、これをどうする、ご飯の上に点々と置くのが「添え」ることになるのか、それとも一箇所に固めて「添え」ておいて食べながらつけるのか……など、考えた挙句、とりあえず点々と置いてやってみた。
たしかに旨い。今まで母親が似たようなものつくってくれたことはあったが、わさびが入るだけで、かなり違う。わさびと鰹節の香りが引き合い高めあって、鼻をおいしく通り抜ける。これからのかつぶし飯にはわさびだ。間違いない。皆さんもやってみるとよい。



──美味に関心の深い作家と、比較的無関心な作家とは、文章を見れば分る。一種微妙な照りのようなもの、それがあるかないかで大体の察しがつく。谷崎潤一郎の筆づかいなぞ、直接食のことが書いてなくても、舌なめずりなさらんばかりに美味に執している感じがあり(略)(P23)


『ひじきの二度めし』の章で、阿川弘之はこう書いている。「食事」と「文章」の関係は、阿川弘之から見ても純然とあるようだ。私がどんな文章を書きたいかと思えば、やはり、「微妙な照り」が欲しい。その「微妙な照り」は並大抵の食体験で得られるものではないだろうが、こういうのは日々からの心がけで、少しは変わるものかもしれない。まだまだ金もなく、また知識も風格もない私だが、できる限りで様々な食体験をしていこうと、改めて決意した。
この本を手に取った動機から考えれば、こうしてはっきりと答えを明示してくれるというのも、運命というか、導きというか、いるかいないかわからないが、本の神様に感謝せずにはいられない。ありがとうございました。