4 シェアードワールドとしての作品作り




それでは「名無しの才能」たちに対して、一次創作者たち(転じて、プロの創作者たち)はどのようにアプローチしていくべきなのかを考えてみたい。
結論からいえば、「名無しの才能」に対しては無関心でいることが一番なのではないかと思う。
テレビアニメ『らき☆すた』は、番組内であきらかにニコニコ動画などでネタにされるような素材を提供しているようなところがあった。ニコニコ動画で『らき☆すた』のパロディが人気を博していることを知った創作者たちが意図的にそのようにしたかは定かではないが、これに対しては、賛否両論だった。パロディのネタを落としてくれることで喜ぶ動きと、そのような動きは自重すべきという考えとがあったのである。あくまでテレビはテレビなのであるから、一部のユーザーに向けてそのようなネタを提供するというのは、メディアの特性上、好ましくないという意見もあった。「名無しの才能」を過剰に意識するあまり、行き過ぎたり、かえって反感を招いたりしてしまった例といえるだろう。
パロディの面白さとは、独自の着眼点と工夫が加えられることで、既成作品から新たな価値を生み出すところに真髄があると私は思う。その点において、一次創作者たちはあくまで自分の世界を持ち、自分たちの作品作りをすることだけを念頭におくべきである。「名無しの才能」たちはその中から、パロディのネタをしっかりと拾う。そこには知的で、文化的な営みが存在する。
この好例として、評論家の更科修一郎が『AIR』という美少女ゲームを作ったメーカーの社長へのインタビューで、このように言われたということを、対談で語っている。


──馬場社長は個人的に『AIR』を「シェアードワールドもの」として売り出したかったと言っていましたね。現代のクトゥルフ神話にしたかった、と。


ここから導かれるものとして、たとえどのような形で二次創作を行われたとしても、『AIR』という作品は揺らぐことはないし、『AIR』そのものは変わらないという確固たる意志があるように、私には感じられる。
馬場氏の感覚は、今後作品作りに関わるすべての人に必要になるものではないだろうか。コンテンツからコミュニケーションに意図的に歩み寄るのではなく、はじめからコミュニケーションされることを前提に世界や作品を作っていく。自分たちの世界を侵害される、踏み荒らされるという意識ではなく、どのように作品を作っても、それは素材としてパロディやコミュニケーションのネタになりうる(なってしまう)のだから、かえってオープンにしておくという余裕を持つのである。
この発想を持つだけでよい。一次創作者は変わらず作品作りに邁進すればよい。たとえ二次創作やパロディをやられても、自分たちの世界は変わらない。
だから「名無しの才能」たちは、たとえ著作権の侵害行為だ何だと言われても、その手を止めてはいけない。利権に負けてはいけない。陰謀に負けてはいけない。リスペクトある二次創作をし続けることで、一次創作者たちの生み出したコンテンツを最大限消費する一翼を担っているのだというくらいの気概でよい。それはパロディというジャンルをより強固にして確立させていくことにも繋がる。また、今までテレビや出版に限定され、支配されてきたメディアに対してのある種のカウンターのように響いていく可能性がある。
コンテンツの受け手が今度は作り手となり、また違う受け手に対して、メディアを展開していく。この健全で、全員が前向きな関係こそが、メディアの新しい大きな流れを作っていくのではないだろうか。