1 「名無しの才能」にまずなってみる




数ヶ月前になるが、ニコニコ動画とクリエイターの関係についての論考を、某文芸誌に本名で寄稿したところ掲載された。
タイトルは『シェアードワールド高等遊民』という。
せっかくなので、時機を逸する前にネットでも配信しておきたいと思う。ネットに関わる文章はネットでも発表しなくては意味がない気がするのだ。
全体は4部から成っている。要は何が言いたいか、のところは4部に書かれているので、そちらだけでも読んでいただければ幸いである。
以下、本文。



ハンドルネームを用い、自分のウェブサイトを開設したのは中学二年生、二〇〇〇年の十一月だったと記憶している。まずはテキスト(日記)サイトとしてはじまり、今でいうオタク化が顕著になった時分にはイラストサイトになった。イラストを廃業してからは、インターネットラジオを数年にわたって配信していた。その後、また再びテキストサイトに戻り、現在でもその流れは続いている。
私が今までもっとも夢中になってウェブサイトを更新していたのは、高校生のときであった。生活を切り売りするような日記を書いて、自分なりに必死にネタを考えてラジオ番組(という名のおしゃべり)を製作していた。インターネットを通じて知り合った方に誘われ、京都まで遠征し、インターネットラジオ番組に出演したこともある。そのモチベーションは、やはり視聴者からの感想や激励にあった。当時では、たった一件の掲示板の書き込みや、たった一通のメールが、私にとって大きな価値をもっていた。自分のやっていることが認められ、評価してくれる人がいるということが、無上の喜びだったのである。私はネットを通して、創作に対する何かしらの反応をもらうという楽しさ、喜び、辛さを学んでいった。
昨年のことである。私は大学の友人たちと、ニコニコ動画にある動画を投稿した。体を張って体験し、その様子を撮影して簡単に編集したものだ。動画は私たちの予想を上回る反響を得て、執筆現在、再生数はもうすぐ九万回に届こうかとしている(※投稿現在、再生数は14万回を超えた)。寄せられたコメントの多くは「w」(ネット上の表現で「(笑)」の省略系として用いられるもの。嘲笑の意味で用いられることもある。「wwww」のように多用し、その度合いを表す)であった。好意的なコメントが多く、投稿者の私や友人も、素直に喜ぶことができた。しかし私には、複雑な思いもあった。あれほど躍起になってテキストを書き、ラジオ番組を制作していた頃には考えられないほどあっさりと、容易く、反応が手に入ってしまったからである。特にラジオ番組を制作していたのは、ニコニコ動画に近い活動ということで、私にとって衝撃が大きかった。私の番組はそれほど人気があったわけではないから、再生数は多くても一〇〇回前後であり、リスナーの大多数はコメントやメッセージをくれるわけではない「見えないリスナー」たちであった。端的に言えば、再生数よりも、私はそのことが寂しかったのである。
ニコニコ動画が作品発表の場というより、コミュニケーションの場として機能しているのは、このコメント機能の容易さ、レスポンスの早さがあるだろう。なにも創作者は長々と、立派な感想や評論を求めているわけではなく、まずはただのひと言でも自分の作ったものに対してコメントが欲しいのである。この気持ちは、一度でも自分で何かを作り、インターネットに公開した人間ならば、賛同が得られるのではないかと思う。そうでなくとも、誰しもが似たような経験があるはずだ。たとえば、まだ幼いころに絵を描き、母親や先生に見せて「上手ね」と褒められることに、とても似ている。その両者の思考の純粋性は変わらない。それゆえに、かえって作品を発表し、議論や評論する場としては向かないのである。投稿者の多くが望んでいるのは、賛辞・批判を文字通り浴びるように得ることであり、作品に流れる大量のコメントを見ることで、自己顕示欲を充足させ、満足感を得ることなのだ、と、私は推察する。それを「才能の無駄遣い」と感じるのは、あくまで視聴する側であって、動画の製作者ではない。動画の製作者は、才能を発揮してすでに評価を得たあとなのだから、無駄ではなく正当な使い方をしたといえる。それを無駄と考えてしまうのは、こんなところに使って、というユーザーのある種のアイロニーもあるような気がする。
社会的な背景も含めると、私のこの意見が際立つかもしれないので書いておこう。投稿者の多くは徹底して点数至上主義に慣らされた世代である年齢の若いユーザーが多い。私もそのひとりである。学生時代、自分の行ったことはすべて数値化され、結果として試験の点数や成績表にのみ表れるようになっている。再生数やコメント数は、文字通り「数」でしかなく、私たちはすでに行いに対する数値化は何度も経験していることであるから、「数」そのものに深い喜びはない。むしろ大切なのはコメントが見える、感じることができることだ。そこには点数では決して知ることのできない、生々しい評価がある。それは私たちが知らなかった、創作に対する新しい喜びであるともいえる。
名前を失念したが、とあるマンガ家があとがきでこう書いていたのを思い出す。
「元気が出ないときや詰まったときは、ファンレターを一通一通じっくり読むんです。すると、できるような気になってくるし、励まされる」
人気タレントや売れっ子マンガ家にならずとも、大量のファンレターを受け取れるとしたら……と、読者諸賢も想像してみてほしい。それだけ人からのコメントやメッセージというものには、心の中にある何かに届く力がある。ニコニコ動画には「名無しの才能」が集っているのではなく、視覚的なコメント機能という特有のサービスによって「名無しの才能」たちが生まれやすくなっていると考える方が賢明だろう。