中村九郎『樹海人魚』




私は最近どうにも、ライトノベルというジャンルに固執している。自分がエンターテイメント志向であることは自覚しているつもりだが、とりわけこのジャンルがなぜ気にかかっているのかと考えたら、これは明白で、様々な人の反応が気になって仕方ないからである。自分が苦しんだり楽しんだり泣いたりしながら書いた作品を、読者はどんな風に受け入れ、感想を持つのだろう……と、気になってしまうからである。つまり私は「読まれたい」のだ。反応が知りたい。だから、それがネットであれなんであれ、誰が読んでいるのかわからないようなのは、辛くて、だめだ。私は芸術家にはなれない。単なる、成果主義的な物書きにしかなれそうにない。
その点、ライトノベルは読者も熱心で、ネット書評やイベントなどもあり、読者の顔が見えやすい。やや偏狭的なところがあるかと言われたら否定もできないとは考えるが、そんなのは別に純文系でもSFでもあるだろうから置いておくとしよう。私は自分本位になれない。他人が、気になる。本という観点で考えれば、読者と書店が気になる。売れていない本は、一般的な書店から言えば在庫でしかない。商品という認識よりも先に、在庫という、流通に取り残された亡霊のように倉庫に収まるもの……それは、嫌だ。私は書店でアルバイトをしているが、その度に、何十冊、何百冊と本を返品する。その中に平然と私の作品が紛れ込むのは、辛いのだ。(もちろん作家ならみんなそうだろ、という意見もあろうが、その思いの強さの問題である)
私は熱心なライトノベル愛好者ではなく、ファンタジー愛好者でもないから、紛い物には違いない。だから私は、開き直る。ジャンルは超えるもの、自分の外側にあるもの、そんな風に捉えている。理想を言えば、ライトノベルの海に漕ぎ出したとしても、私の船は潮流に負けないスクリューを持っていて、自分でその行く先を変えられればいい。そのためには、まず、漕ぎ出す海が必要だ。それがライトノベルという入り口であっても、私は一向構わないのではないか……そう思う。ライトノベルの波は多く早く大きく、並大抵では留まることさえできない。しかしそれだけに、強さがあれば、残ることができる。その強さの指針のひとつに、ファンと呼ばれる人たち、誤解を恐れずに言えば「信者」の存在がいると考える。

前置きが長くなってしまったなぁ。こんなこと、書くつもりではなかったのだけど……なんだか書き出したら止まらなくなってしまった。
さて、中村九郎も信者の多い作家であると耳にし、読んでみることにした。
本当は『ロクメンダイス、』が読みたかったのだが、絶版で手に入らず、仕方なく『樹海人魚』へ。端的に言えば異能力バトルモノ(+ほんのりラヴ)という感じなのだろうが、文章が端正でなく、説明不足の箇所も多く、難解というより読者に親切でないというのは間違いない。わかりにくい状況や設定を、上手く伝えられていない。それだけ読者は迷ったり訝しんだりしなくてはならないのだが、そこを「この小説には何かある」と考えながら読ませる力があるかと問われれば、それも不十分なように感じる。設定として、謎の外的がくるのを特務機関で粉砕、などと書くと『エヴァンゲリオン』とつなげたくなる人もいるだろうが、別に『エヴァ』を持ち出す以前のヒーロー戦隊モノなどもそうであると私などは思うわけで、『樹海人魚』はちょっとした解説・設定資料集が必要な「物語以下」の部分を多く含む美少女戦隊ヒーローモノ、なんて位置においてみたのだが、いささか乱暴だったかもしれない。
いわゆるどんでん返しとなる展開も、なんとなく先読みができ、それほどの驚きはなかった。ただ、中村九郎の想像力は特筆すべきものがあるだろう。メインヒロインの霙の武器が道路標識というのは、なかなか前例がないようで面白い。つい最近2巻が出たそうなので、手にとってもよいかなと思う。この、「なんだかよくわからないけれど面白くて、想像の斜め上をいってくれて、意外な飛び道具と雰囲気にやられてしまった感がある。でも、一読ではなんだかよくわからない」は、中村九郎の武器だろうし、信者たちはそこに惚れるのかなぁなどと、考えてみた。

ただ、中身より問題なのは裏表紙の作品紹介コピーだろう。
絶対零度ツンデレ・バービー」
「罵倒系お姉」
「みだらなラビット」
これらは全部出てこないと考えてよい。そもそもラビットに至っては、「ラビット」はキャラクターの名前である上に、みだらな部分は全くないと思える。格好が派手めで、主人公に冗談で頬にキスをする(本文中では“一撃する”となっていた)シーンがあるくらいだ。もちろん他のキャラクターのコピーにしても、同様のことがいえる。これらのコピーがキャラクターを表しているとは思えない。おそらく中村九郎が考えた文章ではないだろうから、編集側(売る側)が、この作品を購買層に大して安易な意識で手にとらせるべく、それっぽく(流行のライトノベル“風”に)位置づけようとして失敗した感が否めない。別にこんな陳腐な言葉を使わなくたってよかったのではないか、それでいいのかガガガ文庫という感じなのだが、まぁ……読んだ者からすれば、納得がいかず、おそらく中村九郎としても、首を傾げるコピーなのではないかと想像してみるのである。