イデビアン・クルーで笑いの花が咲く。




世田谷パプリックシアターで振付家井手茂太が主宰するイデビアン・クルーの公演「排気口」を観た。上げるところ下げるところが明確で緩急があり、観る者を飽きさせず、常に新しい刺激の中へ取り込んでいく展開に好感が持てた。様々なダンス様式、音楽、そして合間合間に小芝居を持ってくるなど、あらゆる要素を用いることで、一分一秒先に何が起きるかわからないという期待感を継続させてくれた。


「排気口」は「笑い」と密接な関係にあった。ポイントごとに「さて、ここが笑いです」というような親切なフリをしてくれるのだが、はたしてそれで笑ってしまうのは大変に悔しい。(こんなひねくれた考えをしなければ素直に面白いのだろうが。)なので我慢しているのだが、笑いの種がどんどん植えつけられ、仕舞いには芽を出し花を咲かせ、どこかで笑ってしまう。笑わずにはいられなくなる。コミカルな動きや謎の小芝居を、本来もっと色々な踊りができるほどの身体性をもつ人間が真面目にやっている。そこがもうひとつの笑いどころなのかもしれない。


それにしてもタイトルの「排気口」の意味が捉えられずもどかしい。舞台構造を比喩しているのかなぁ、と私は考えたが、どうだろう。中央で起きた事象が配管を伝わって他の場所へ影響を与える、というような……ううーん、でもそういう感じでもないか。観ながらもっとしっかりタイトルについての思いを巡らせればよかった。



さて、ここからは私的な考察。
「舞台の多視点的な使い方」について。私が知る限り、舞台というのは奥行きこそあれ、観客の見る目が定点カメラとなって、私たちの前方でのみ舞台が進行する。「排気口」で、舞台中央に敷かれた正方形の畳で男性演者と女性演者が演技しているシーン(これをAとする)があるのだが、その際、別の演者がちょうど彼らの真横からまるでテレビを見るように正座をして眺めているシーンが(これをBとする)ある。Aで起きたことはBにとってはテレビの中の出来事らしいのだが、Bが手を叩くと、Aの演者は驚いてみせる。Bの行為がAの世界に干渉している。観客はAで起きていること(通常の観客的視線)とは別に、頭の中でBからの視線(別方向からの観客的視線)を想像することができる。同じ時間軸上で別の世界が同時に進行する。「即時性」が舞台演劇の持つ強さだと考えれば、このような多視点的な使い方は、実に面白い方法である。


何も正面からだけ見る世界だけで勝負することはない。これは応用できるかどうかわからないが、小説においても有用かもしれない。読者の混乱を最小限に留めながら、他視点的な展開を取り入れてみるのだ。三人称ではなく、あくまで「一人称の重なり」であることを意識して文章を組み上げれば、実験小説的なものができるかもしれない。今、書いている小説でできそうなら、やってみたいと考えているが、果たしてどうなるか。


舞台演劇と小説は全く土壌が違えど、何かの共通点や共有できる意識というものがある、そのように感じている。小説があらゆる要素の最も純粋な形(言葉)を用いてのみ構築されるとすれば、その「あらゆる要素」を知ることも、大事なのだろう。もっと私は劇場に足を伸ばすべきだ、という気がしている。



余談。
世田谷パブリックシアター、めちゃくちゃかっこいい。
ファイナルファンタジー6』の中にいるみたいだった。