とても眠れる状況ではないのに眠くなる?




六本木でダンスパフォーマンスグループ「BABY-Q」の公演「Matar o no matar」を観た。主催者である東野洋子の「血」がだらだらと溢れているような刺激的な公演。映像効果、ノイズミュージック、フリージャズ……ダンスに様々な効果や演出が絡み合い、独特な空間を創りあげていた。足を突っ込んだのが現代舞踊からだったからだろうが、なかなか観られない、観たことのない類のパフォーマンスだった。狂気的ですらあった。誘ってくれた友人には感謝しきり。
ただ、その最中にあって、はっきりとした眠気を感じたのも確かだった。聴覚はめくるめく音楽で息つく暇もないほどなのに、それはなぜなのか?
考えてみたが、やはり踊りのフリや演出が繰り返しになっている(ように感じる)ことが要因だろう。男性パート、女性パート、男性パート……と切り替わっていくところがあるのだが、パートごとにそれほど変化があるように思えなかった。いつ観ても、同じような動きをしている。動きのキレもあるし、技術はたしかにあるのだろうけれど、やはり同じものを観続けるのは辛いものがある。また「押し」のある表現ばかりで、「引き」がないので、だんだんと冗長さを感じてしまったのだろう。小説でいえば、延々と主人公の告白が続いているようなもので、展開がない。ミステリーなのにいつまでたっても人が死なないようなものだ。(人が死ぬからミステリーとは限らないだろ、という話は置いておくとして。)
また終盤になって、主催者の東野洋子がまた同じようなフリを踊る。これが一番、素晴らしい。動きはもちろんだけれど、それだけではない、俗っぽく言えばオーラのようなものがあった。ただ、それがいけなかった。それまでの他の出演者の踊りが、どれも東野の劣化コピーか紛い物のように思えてきてしまったのだ。これは一緒に行った友人曰くだが「最後だけでもよかった」という感想を抱かれてしまっても仕方のないように思える。しかしながら、本当に楽しかったし、観ていて息を飲むという瞬間も数多くあった。もう一度観たら、感じ方が変わるかもしれない。ただ、あのライブハウスの座席は硬い上に狭いので、とても長い時間座っていられないから、同じ場所の公演なら辞退してしまいそう。これは、余談。


さらに余談だが、「BABY-Q」(東野洋子が、かな?)は何かのコンテストで賞を取ったことで、文化庁だか何かから後援金が出ている、らしい。すごい。でもたしかに舞踊や演劇は、保護目的で考えれば、そういったことも必要かと思う。それを聞いて冗談で「小説家も保護してくれないものかね」と言ったのだが、口にしてみて、将来的にありえない話でもないような気がした。もっとも、金のかかる公演があるわけではないから、それでは単純に生活保護と変わりないのだけれど。


舞踊を見るのは楽しい。視覚的にどんどん飛び込んでくるところがいい。演者の呼吸すら表現になってしまうのも、面白い。人間と人体に興味がある。まだまだ観たいし、考えたい。