モードにとってクラシックは害なのか?




モードを毛嫌いするのではなく
受け容れる懐の深さこそ
クラシックの余裕


これは大河原遁王様の仕立て屋サルト・フィニート〜』19巻の帯にあった言葉です。なんていい言葉なんだろう、とバイト中にも関わらずメモをとって持ち帰りました。
モードを受け容れる懐の深さ……これはそのまま小説や文学(界)にも適応できそうです。以前、とある批評家?評論家?研究者?……よくわからない人が、某ロシア文学者を超える作家も小説もないから現代文学なんて読む意味がない(むしろ、それはいいから俺の小説を読めと持ってくるやつがいない的な感じのニュアンスだったのだけれど、自分から批評対象を見つけず持って来いっていうのはなかなかに横柄だなぁと思った、責任転嫁っぽいなぁ、とも思うけれど。)と言っていて、私はその言葉にずっと反発心を持っていたのが、この言葉で胸のすく思いがした。


クラシック(古典)には不変的な強さが備わっている。認める他ない。しかし、毛嫌いして排除し、もうこの世界や業界にこれを超えるものがない、としてしまうと、自ら終止符を打ち、その世界は閉塞してしまう。次代へつながる活動ではない。それをこれから次代を創ろうとしている人に向けて放っても、私はどうも後ろ向きなことしか生まれないような気がする。今なら今で、誰を見なくてはいけないか、誰を評価しなくてはいけないかを自らの審美眼で論じると、私たち受け手側にも有益だし、世界そのものが閉塞しなくなる。その過程で「でもやっぱりここは○○と比べるとまだだよね」という論じ方をすれば、価値が出てくるし、役に立つ。実践的である。少なくとも、まぁ、前記した「よくわからない人」は私の大学の某教授なのだが、こういうカチカチな人が少しはいてもいいが、幅を利かせていても大抵イイコトはなさそうだ。実際に、イイコトはあまり聞かない。

話が逸れた。
正直、その教授のことはどうでもいいのだ。業界的にも、どうやらどうでもいいことになっている。
つまるところ、この「懐の深さ」というのは批評眼や審美眼においてもそうで、自分がわからないことを「わからない」と認めてしまう(論じることさえしない)のは恥ずかしいことだし、恥ずべきことなのだ。自分はいくつになっても、どの世代どの業種から「何か」が飛んできても、自分の懐にしっかり納めて、言葉を発せられる人間になりたいと思う。そのためには、クラシックな強さを身につけなくてはいけない。刺激を求め、新しきを欲するのもよいことだろうが、それだけではいけない。両立が大切なのだ。読むべきもの、感じるべきものがたくさんある。私は、どうにもまだ、若すぎる。