穴倉のような部屋でオナニー。




今、私の部屋は昼間でも暗い。自室の室内灯は、50Wの電球を3つ使うものである。ひとつ切れても「あー少し暗くなったなー」くらいで気にならない。ふたつ切れてしまうと「だいぶ暗いなー」と思いはするが、デスクライトをつければ支障はないような気がして放っておいた。家族や恋人が部屋に来ると「暗い」と一様につぶやきはするが、面倒くささが勝ってしまっていた。そして昨日、ついにみっつの電球すべてが切れた。壁についているスイッチをカチカチやっても、部屋は暗いままだ。デスクライトと卓上ライトのみで生活している。穴倉の中にいるようみたいで楽しい!などと自分に言い聞かせても、部屋へ入るときに必ずスイッチを触ってしまう。習慣の強さを感じる瞬間だった。
習慣の強さといえば、オナニーも似たようなもので、まだまだ精通したての頃は、なんとなくオナニーすること自体にときめきやらわくわくがあったような気がするのだが、どうもオナニー暦も10年を迎えると「あぁ、昨日はしてないから今日は出しておいた方がいいかなぁ」とか「もう3日もしてないから危険な気がする(根拠はない)」とかいう理由でオナニーをしているような気がする。これはとてもよくない。習慣でオナニーしても楽しくないし、何より性活動に対する貪欲さを失ってしまっているようで寂しい気持ちになる。と思って、脱・ルーティンオナニー!などと高らかに誓いを立ててインターネットの海へダイヴしたりマイベストエロマンガを読み耽ったりするのはいいのだが、下手すると数分のオナニーのために小一時間費やしてしまうというのもザラにあって悩みどころである。ススッと抜いて時間を有効に使いながらも習慣的にならないオナニーの方法はないだろうか、と考えたのだがどうにも浮かばない。そもそも精通したて云々の頃は、妄想物資が乏しかったにもかかわらずよくよくできたのだから、今のように直接物資に頼っていることが間違っているのかもしれない。
いやむしろ、積極的に究極的に物資に頼るべきなのかもしれない。セクサロイドの有用性が、なんとなく、オナニーライフの充実と時間短縮にあるような気がしてきた。そんな思いを抱きながら入った某古本屋のエロDVDコーナーに「この棚のものは18歳未満には売れません!大人になったらドンドン見よう!!」と実に心温まるポップがついていて楽しくなった。未来の子供たち(大きなお兄さん含む)はどんなオナニーをしているのだろう。「右手が恋人」なんて死語になっているのかもしれない。なっていないかもしれないけれど、何かしらのオナニー大革命が起きた時、人類は大きな変化を遂げるような気がする。たとえば、戦争がなくなったりするんじゃないか。たかがオナニーされどオナニー。ラブアンドピースアンドオナニー。
と、未だに何でオナニーするべきかの悶々を小一時間引きずっているせいもあって、こんな日記を書いてしまうのであった。あー楽しかった。優柔不断っていやですね。