「日記」の書き方がわからない人へ




最近、読書記録と食日記しかつけていない気がするのだが(今見たら、5月はラジオ告知以外全部そうだった)いわゆる「日記」の書き方がわからなくなっている。ブログの価値のひとつに、色々なことを志向して思考してアウトプットする、というのがあると思うのだけど、ここのところ考えていることなんて卒業制作と通常月の2倍近く請求が来てしまったクレジットカードの支払いをどうするか(先月あまりにストレスフリーな生活をしていたツケが回ってきてストレスを生んだのですね、わかります)くらいなものだ。純粋な「日記」として、一日に何があってどうでこうで、というのはmixiでわかる人に書いたらいいんじゃないの、という思いもあって(ネットで公開する以上は反応が欲しいのもある)ここでことさら「日記」を書く理由が見つからない。まぁ、みんなそういう思いを抱えてブログを閉鎖していくのだろう。
私の場合、日々考えていることや感じていることを「小説」というアウトプットにつぎ込める(溜め込んでしまう)ので、余計にそうなのかもしれない。ネット徘徊だけはそこそこしているので、ムーブメントとか一発ネタとか面白いと思ったもの・事象もあるのだけど、こんな場末のブログが紹介して何になる、なんて思う。でも、それを言ったらおしまいだ。実際のところ、このブログにアクセス解析をつけていないので、一日どれくらいの人が見ているかわからないというのが大きいのだろう。
何かもっとこう、目的意識がなければいけないのもしれない。理由は何でもいいのだ。自分のため、社会の(一部でも広義でも)ため、お金のため……でもこれは「小説」で言う「テーマ」と同じで、はじめからがっちり決まっているものなど、きっとほとんどないと思う。私の習っている小説家の先生もおっしゃっていた。「テーマ」など、ぼんやりと持っている中で書き続けていけば、おのずと浮かび上がるものだ、と。自然体の文章を目指すべきなのだ、と。「小説」と「ブログ」は違うかもしれないけれど、なんとなく、私もその考えには賛同するので、このブログもぼんやりと続くしかないのだ。少なくとも、自分にとっての「テーマ」や「明確な目的」が定まるまでは。だってこんな、どこかの大学生のだらだらとした語りなんて、誰も読まないし、ネットの片隅に放っておかれるだろう。でももしかたら、こういう語りの集合体が、大きなネットの物語(ネットの文脈、というべきか)になるのかもしれない、という願いめいたものがある。
ブログというのは、私たちがどう生きるか、どう生きてきたのかを、自分も他人も知るには、案外悪くないシステムではないだろうか。書き手も読み手も積極的であるほど楽しめる(特に個人ブログの場合、積極的な興味関心がないニュース的な扱いとして読むには適さないと思う、これもひとつの「読書形態」だ、と思うほうが向いている)性質がある。つまり、うん、だらだらとやっていてもそれはそれでいいんじゃないの、ということだ。ただひとつ肝心なのは、読んでくれる人がいる以上(ネットで公開する以上)、その人に何かしらの影響を与えなければいけないという義務が発生していることを自認するのに尽きるのだろう。それは、一流ブログも、著名人ブログも、場末ブログも一緒のはず。


読書日記の前口上のつもりが、こんな長文になってしまった……冒頭で「日記」の書き方がわからないなんて書いていたが、こういうものこそ「日記」なのかもしれない。カテゴリーを変更して、投稿することにする。